旅とか雑記とかを冗長に
昨年「闇の子供たち」という本を読みました。この本を読んだのは2回目です。
この作品は一般的(何をもって「一般」かは定かではないですが)な感覚や性嗜好を持った人間であればショッキングな内容です。
江口洋介氏と宮崎あおい氏が出演する映画も公開されています。
今回はこの本を読んだことをきっかけとして、長年僕が感じている東南アジアの売買春についての本音を綴りたいと思います。
なお、本稿では幼児/女児/男児=12歳以下、少女/少年=13歳以上16歳以下、女性/男性=17歳以上と定義付けます。それ以外の表現は文脈から察してください。
タイの貧しい田舎に幼児ブローカーが来る場面から始まります。
8歳の女児が両親からブローカーへ売られ、最終的にバンコクにある売春宿へ辿り着きます。その魔窟のような宿が舞台です。
その子の姉は数年前に同じブローカーに売られてエイズを発症。商品価値がなくなった彼女は、生きたまま袋に入れられてゴミの処分場に捨てられます。瀕死の状態で故郷の村まで歩いて辿り着きますが、両親にも村人にも疎まれて父親に火を着けられて亡くなります。
物のように売買された幼児たちが暴力で支配され、売春宿に次々と訪れる外国人に肉体的にも性的にも虐待されていく様子が描かれています。
女児を犯し男児も犯す白人男性。
男児に薬物を摂取させて死ぬまで犯し続ける白人女性二人組。
子供同士で性交させ、その行為を録画する日本人。
そしてバンコクでNGO団体に所属する日本人女性と新聞記者の日本人男性。
そんな話です。
幼児売買春、人身売買、臓器移植は現実に起こっているノンフィクションとのこと。それを物語として脚色したものが本書になるのでしょう。
描写が妙にリアルで、細やかな取材のもとに生まれた作品だと想像できます。
ちなみに舞台であるタイで映画が公開されたときには「ノンフィクション」という言葉を削除されたらしいです。そりゃ、そうだ。
原作に登場する男性のプロフィールが「1947年生まれ、50歳」となっています。従って1997年頃のタイが舞台だと推測できます。
僕が初めてタイの地を踏んだのが1996年。
僕はこの時代に「闇の子供たち」の舞台に存在していたことになります。
学生時代に行った初めての海外以来、社会人になっても連休の度に東南アジアを中心に海外の国々を彷徨いました。
最初はガイドブックにあるような土地を巡っていましたが、それでは物足らなくなったのか、気がつけば都市部から離れた村や辺鄙な国境を越えるのが楽しくなっていました。
外国人が訪れない場所、誰も見たことがない風景、その土地にある風習、開国から間もない国。
「見る」から「感じる」という体験に比重を移してきたように思います。
趣味の山でも同じなのですが、スタート地点からゴール地点まで誰も描いたことのないような綺麗なラインを描きたい、とも考えていました。
とはいえ、インターネットを使えば辺境の地への行き方は検索結果に出てくる時代。僕の行為は「外道クライマー(宮城公博氏著)」で表現されている「落穂拾い(先人の切り開いた道を辿るだけの行為。真の冒険ではない)」なのでしょう。
日本でも遊郭跡や風俗街を歩くのが好きでした。怪しさや下衆臭さに風情を感じます。
地元だと町田市と相模原市の境界にあった「ちょんの間『田んぼ』」の細い路地探索とか面白かった。崩れそうな長屋に大胆な服を纏った女性たち(ほとんど外国人のおばさん)。
娼婦も客も、一人一人に僕の知らないストーリーを持っている。それを盗み見ているような気がして見ていて飽きなかった。何よりアングラ感があってスリル満点。
一般的な観光旅行であっても東南アジアで売買春の光景を目にすることができますが、旅を重ねてよりディープな場所を探すにつれ、このような場面を目にする頻度は高くなったように思います。いや、そっち方面のアンテナが敏感になったのかな。
タイにはゴーゴーバーなるものがあり、中ではお立ち台の上で水着の女性たちが踊っています。
彼女たちには番号札が付けられており、その番号で指名して一緒に飲むことができます。酒を飲みながら鑑賞するも良し、女性と話すも良し、幾ばくかの金銭を払ってお持ち帰りするも良し。
酒を運んでくれるスタッフ(おばちゃんや男性)にも番号札がついているという奇怪アミューズメント。そして大概ママさんは妖怪。
「女性」と書きましたが、生物学的男性(手術済みの美人からワイルド系まで多種多様)も多いです。
札束が宙にぶちまけられる光景や日本人男性が美女を連れ歩く光景も見ることができます。お金があればなんでもアリの世界。
僕は社会見学とお酒ついでに何度か行きました。タイ語も色々教えてもらいました。ほとんど忘れたけど。
最初は体験したことのない場で楽しかったけど、買う気はないし次第に飽きてきました。それなりに飲むとそれなりに金が必要だし。
他にも色々な形態のお店があるけど、行ったことないから良くわかりません。たぶん似たようなものだと思います。
このような場所は、タイに限らず東南アジアの国々であれば都市の一角にあっけらかんと軒を連ねています。
一方、国境に接する街では場末感強め。
不法に越境しての出稼ぎや幼児売買春の噂を聞きつけて足を運んだこともありますが、入ったら買わなきゃいけない雰囲気だったので店の前を通ることしかしませんでした。いきなり「不法入国者ですか?」なんて聞けるわけがないし。
これらの店で幼児売買春の現場は見たことがありません。でも明らかに十代の女性は大勢いました。
夜でも構わず出歩く僕が、全身でヤバいと感じて入れない一角は確かにありましたが。
2010年7月16日
僕はカンボジアのシアヌークビルにいました。
当時はマニアックな欧米人旅行者に好まれる海辺の街で、日本人旅行者は見かけませんでした。現在は中国資本が大量に投入されカジノやビルが立ち並び、当時の様相とはまるで違う街のようです。
夜、宿の近くにある店でハッピーハーブピザを食べようと外へ出ると、トゥクトゥクドライバーの男性から客引きされました。断っても案の定しつこい。
そして出てきた言葉が「女を紹介できる。子供もいる」でした。
- ニヤリ -
行かない理由がありません。
むしろこういうものが見たかった。
僕がビールを飲みながら青臭いピザを食べている間、彼は同じテーブルに座って僕が食べ終わるまで待つという謎の時間を過ごし、その後トゥクトゥクで現場に向かいました。
「買わない。見たいだけだ」きちんと確認はしてあります。
「オーケー、見てみて気が変わったら買えばいいさ」彼は言います。
スラムに行くと思いきや、トゥクトゥクは標準的な住宅街で停まり、目前の家の庭に通されました。
彼が何やら周りの住宅へ大声で叫ぶと、およそ10人の女児・少女たちが周囲の家からわらわらと集まってきます。
まるで「呼ばれたから行ってくるね」と家族に告げて出てきたような雰囲気。
リーダー格の少女が僕との交渉役のようです。
彼女は最年長で16歳だっけかな。目の前に一列に並んでいる子たちの年齢や金額も聞いたと思うけど、詳細は失念。
憶えているのは最年少の女の子が8歳ぐらいだったこと。日本人客も買いに来ること。そして買わずに帰る時、皮肉混じりに「シャイなのね」と言われて何故か敗北感に襲われたこと。
交渉が成立したら宿に連れて帰るのだろうか。それともこの家にある他人の汗が染み込んだシーツの上で一戦を交えるのだろうか。
そろそろピザが効いてくる時間だから宿に戻ろう。
事実として売買春は存在する。幼児売買春も存在する。
ハッピーハーブピザのくだりはフィクションとしてください。他は僕が見たありのままの光景と感じたことです。
色々と批判はあるでしょうが、僕個人としてはなんとも思っていません。
当然ながら需要と供給が存在するから成立する市場。需要側は性欲という原始的な欲求に従っての行動。供給側は対価を手に入れる。
家族を支えるために働いている人、生活費や小遣い稼ぎとして働いている人、天職だと思っている人。人の数だけ事情があるのでしょう。想像することはできますが、真実を知ることはできません。そして知ろうとも思いません。
「僕」という外国人はこの街を通り過ぎる大勢いるモブの一人でしかなく、彼女たちまたは彼らに対してジャッジをする立場にはない。ただの傍観者。
そもそも僕は人の善悪を判断できるような聖人ではありません。善悪なんて曖昧なものは個々の中で決めて従うものであり、自分や周囲への危害がない限り他者が口を挟むのは無礼。
そして何より、人の数だけ存在する価値観に対し自分の価値観に基づいて悩む行為は精神を消耗する。見た現実をありのままに受け入れるだけに留める。これは僕が何度も旅を続けて得た処世術の一つかもしれない。
ただ「闇の子供たち」で描かれている子供たちは不幸過ぎる。
暴力で支配されて不幸な運命を辿る世界は傍観者である立場でも辛い。
人は皆、幸福になる権利がある。
この物語で描かれている時代に僕がこの地に存在していたこと、そして特異な事実を見ることができたことは、少しでも意義のあることだと思いたい。
了
この本を読み終えてブログに書こうかなと思ったのが昨年の3月。その後何となく思いついたことを雑に書き、放置し、やっぱり真面目に書いて、投稿に至るまで14ヶ月かかりました。
随分と遅筆だなと我ながら呆れます。